改革の英雄たちのキャンパス「トリサクティ大学大学 / Trisakti University」
今回のコラムでは、トリサクティ大学 (Universitas Trisakti) について紹介します。
トリサクティ大学は1958年にBAPERKI (インドネシア市民権協議会)によって設立されたUniversitas BAPERKI (バペルキ大学)が前身です。BAPERKIはインドネシア全国から集まった様々な華人組織の代表者によって作られた組織で、その社会活動の一部が、十分な教育を受けることができていない貧しい市民・中華系インドネシア人のための高等教育機関を作ることでした。1950年代末~1960年の間に起こった様々な政変を経てその名前を何度か変え、1965年インドネシア共和国で唯一、政府(大臣令)によって設立された私立大学が、現在のトリサクティ大学です。
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トリサクティ大学の名前 Trisaktiは、設立時スカルノ初代大統領により名付けられ、政治の主権、独立した経済、個性ある文化という意味を持つと言われています。
設立当初は5つの学部からスタートしたトリサクティ大学には現在、法学部、経済学部、医学部、歯学部、土木工学・計画学部、産業技術学部、地球・エネルギー技術学部、造園・環境工学部、美術・デザイン学部の9つの学部があります。
トリサクティ大学の卒業生には、政治家、ジャーナリスト、タレント・歌手など多くの著名人の名前が並びます。第7第ジョコ・ウィドド大統領とタッグを組みジャカルタ特別州副知事、後に州知事となった華人系の政治家、バスキ・プルナマ氏も卒業生の一人です。任期中、それまでの保守的な政治家・政権がしてこなかった大胆な改革を進めたことで有名です。

トリサクティ大学といえば現在でも語り継がれる「トリサクティの悲劇」について触れないわけにはいきません。1998年、当時のスハルト政権に対し改革と大統領辞任を求め、複数の大学からの学生たちもデモを行っていました。国軍の治安部隊とたびたび衝突していましたが、同年5月12日に治安部隊の銃撃によりトリサクティ大学の学生4人が死亡しました。このことを皮切りにデモ・講義は更に大規模になり一部暴徒化し、ついには国会の門をも突破しデモ隊の大学生たちが政府に直接交渉まで行い、ついには大統領は辞任を決意し32年以上にも渡り続いたスハルト政権を終わりへと向かわせた大きなきっかけとなりました。
トリサクティの悲劇から7年後の2005年、当時のユドヨノ大統領を通じて大統領令が発布され、民主主義のために改革の戦士・英雄として命を落とした4人の学生に、国は勲章を授与しました。トリサクティ大学は、「改革の英雄たちのキャンパス」として知られ、民主主義と人権の理想主義を掲げ常に改革の旗を掲げるため先頭に立ち続ける決意を固めた、とされ、このことは現在でもトリサクティ大学のホームページに記載されています。

著者
杏子スパルディ
2003年、留学先のアメリカでインドネシア人たちと出会い在米期間中インドネシアコミュニティにどっぷりとハマる。帰国後インドネシアに単身渡り現地採用で外資・日系企業にて合計14年勤務。現在はフリーランスのインドネシア語講師、コラムニストとして活動中。インドネシア人夫と小学生の子供二人と西ジャワ州ブカシ在住。「インドネシアと日本の架け橋に」をビジョンにオンラインコミュニティ、メラプティ交流会運営。異文化交流会、おしゃべり会、無料インドネシア語レッスンなど毎月開催中。
主な実績:
世界で働く女性のためのポータルサイト「世界ウーマン」インドネシア担当コラムニストにて毎月コラムを執筆・掲載
インドネシア人採用の専門メディア 「アジアンHRジャーナル」にて不定期でコラム執筆・掲載